鬼灯の夏
今年も、玄関にほおずきが届いた。
熟れたまま立ち枯れたトマトみたいに美しい、橙色のほおずきだった。
奥さんが両手に抱えて、阿弥陀様にお供えしに行った。
本堂の台所で、一緒に届いた白と黄色の小菊をバケツに付けながら、一人ふと思った。
お盆が来る。
その時、世界の色が夏に向けて動き出したことが、本当にはっきりと分かったのでした。
夏。一年のうちでこの時だけ、あちらとこちらの境目がとろけて曖昧になる。
夏の陽炎がゆらゆらして地面との境目が曖昧になるみたいに、あの世とこの世の境目がゆらゆらして溶け出して、あちらとこちらの境界線が有耶無耶になる。時空が開く。
会いたい人に会えたり、会えない人に想いが届いたりする、不思議な時期。
特に盂蘭盆が近付くと、それはだんだん濃くなって、この世のものでないあれこれが、そこいら中にたくさん「飛び」始める。
これを書いている今も、窓から誰かが覗いているようで、それは匂いではっきりと分かる。
嗅いだことがある、きつい女性の香水の香り。誰の香りだったかは、もう忘れてしまったし、多分向こうも、そんなに覚えてないんだと思う。
晩夏に向けて、境界線は細く薄くなる。そして地蔵盆を迎える頃、開いた時空は閉じてしまうようだ。
何年前からだろう。お盆に必ずおじいちゃんがやってくるようになった。
家でご飯を作ってる時だったり、布団の上でぼうっとしている時だったり。
ふわっと、おじいちゃんの匂いがする。
整髪料と、乗っていた軽トラと、それから何より山の土や草や、そういった空気の匂い。
ふわっと、漂ってくる。
おじいちゃん、とその度に呼ぶ。しばらくすると、消えてしまう。
初めておじいちゃんが帰って来た時は、泣いてしまった。悲しくて悲しくて、泣いてしまった。
けれど何年か経って、帰って来るのが楽しみになった。
今年は、お酒でも買っておこうかと思う。
いらっしゃい。ゆっくりしてってよ。
そう言いたい、そんな気楽さが持てたのも、ここ最近の話だ。
仕事が終わった帰りしなに、本堂に供えられたほおずきを見に行った。
お灯がともる阿弥陀様の前で、ほおずきはやっぱり、立ち枯れた綺麗な橙色だった。
ほおずき。
鬼灯。
昔は、人間の認識外の事柄全て、鬼の事であったと言う。
鬼が、足元照らすために持ってきた提灯か。
静かに暗い本堂。鬼の灯は、夏が始まったことを、はっきりと告げていた。
月が鳴る日
海と親不知
空に見えなくなる鳥
冬の朝
金曜深夜零時
こつ、こつ、と靴を鳴らして部屋の中に入ると、当たり前だけれど真っ暗で、手探りで電気を点けて「ただいまぁ」と言ってみたけれど、寝ぼけたみたいに間抜けな自分の声が響くばかりで、引っ越して間もないがらんどうの私の部屋は、闇から何かを跳ね返しながら、確実に寂しくてあったかかった。
カガミ
土曜日の帰り道。
大声で座席を占領している、うら若きお嬢さんたちに出会う。
見ればけっこう可愛い。まさに「恋するお年頃」といったところ。
ふと窓に映った自分を見る。
髪はボサボサ、化粧もはげてる。靴底はすり減ってるし、そういやコートの毛玉なんて、最後にいつ取ったのやら。
ため息が出そうになって、ふと笑った。お嬢さんたち、今が花だよ。若さも、若さに伴う美しさも、今を逃せば一生手に入んないよ。
なーんて、31歳が言うことじゃないか。しかしまあ、終電間近の31歳、窓に映った私はしっかり「オバサン」だ。
帰ったら湯船に浸かって、しっかりお肌の手入れをしよう。新しい靴を買って、コートの毛玉を取ろう。
「大声で話すお嬢さん、お里が知れてよ」
そう注意しても、一歩も引かない、うるさいよオバサンなんて言わせない。
そういう女性に、私はなりたい。