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一文一投

思ったことを、だれかにひょいっと投げるきもちで

海と親不知

親不知を抜いた。
「ご苦労さんでした」
全ての施術が終わった後で、遠山歯科の遠山先生は言った。
「抜いた歯、持って帰る?」
私が頷くと、遠山先生は小さなジップロックのビニール袋に入った歯をくれた。私はそれを受け取り、しばらく眺めた後、持ってきたハンカチで大事にくるんだ。そしてお会計を済ませ、痛み止めを大量にもらうと、遠山歯科を後にした。
「痛かったら、間隔開けず飲んでいいからね」
ロキソニンを渡す時、遠山先生は言った。

別に親不知に悩まされていたわけじゃあない。なんとなく、抜こうと思った。そりゃあ生理前や体調の悪いときには痛むこともあったけれど、それなりに共存していこうと思っていた。
なんで、抜いたんやろなあ。
トートバッグをぶらぶらさせながら、バスに乗る。中央病院前発、北鈴蘭台駅前経由、次は、筑紫が丘5丁目です、筑紫が丘5丁目です、お降りの方は降車ボタンを押してください。
アナウンスが、晩夏の日差しとひんやりした冷房に混ざって、やけに風流に聞こえる。

家に帰ると、ハンカチからくるんだ親不知を出して、ジップロックに入ったまま本棚に置いた。
こうやって見ると、化石みたい。
ところどころ虫くれて、黄ばんで、ガタガタで。どこか遠い太古からやってきた、アンモナイトの欠片みたいな。
けれど、かくしてその実態は。私の親不知である。
私から抜け落ちた私の親不知は、本棚に置かれ、サン=テグジュペリの『星の王子様』や借りてきた一昔前の漫画なんかに混ざって、ただの「飾り」になった。

案の定、痛みはひどくなった。夜中に痛み止めが切れてウンウンうなり、マグカップいっぱいのお白湯でロキソニン二錠を流し込んだ。それでもまだしばらくは痛くって、うなりながら泣きそうになった。痛みが切れた頃に寝付くと、痛みとともに目が覚めた。なんだか自分が、すごく理不尽な目に遭っているように思えた。

朝になると痛みは幾分かマシになっていて、それでも口の中の張り付くような違和感は消えなかった。
うまく口が動かせなくって、半べそでボソボソとトーストを食べた。ジャムを塗ろうと思ってやめた。なんでだろう、虫歯を連想したからかもしれない。

三日目にやっと違和感が消えた。
それで私は親不知を持って、海に出かけて行った。

山陽須磨駅で降りて海岸に出ると、思ったより混雑していた。
お盆を過ぎると、クラゲが出るよ。
まるでお化けが出るようにそう言った祖母を思い出す。お盆を過ぎると、クラゲが出るよ。浮遊するクラゲが、8月15日に帰り損ねたご先祖の魂みたいで、幼い私はそれをひどく怖がった。
クラゲに負けないのか、それともクラゲなんて出ないのか。ビーチの若者はとても元気だ。

傾きかけた分厚い陽射しに参りながら、ほとほとと海辺を歩く。当たり前なのだが、みんな水着だ。日焼け対策のパーカーにジーンズという出で立ちなので、自分がなんとなく目立ってしまうのを感じる。せめて、と靴を脱いで裸足になった。えいや。一歩踏み出す。足の裏が焼け付いてとろけてしまいそう、その位に、砂浜は熱い。けど実際そんなことはないので、恐る恐るながらも裸足で砂浜を歩く。

ビーチから少し離れたところにある、張り出した堤防の端っこまで辿り着くと、私は海を眺めた。濃い緑青。太陽を跳ね返す金色。ちろちろと、赤白のブイが浮かんでは消え、浮かんでは消え。晩夏の海は、燃え尽きる前の花火のようだ。どれもものすごく濃い色合いで、最後の声を上げている。
ポケットからジップロックに入った親不知を取り出した。よく見ても、引きで見ても、やっぱり親不知はアンモナイトみたいだった。私の親不知というには、あまりにも私じゃなかった。つまりこれは、もう私ではない。私から零れ落ちた時点で、私の歯茎に根を張り私の一部だった親不知は、私ではなくなったのだ。
「では」
ジップロックに入った親不知を取り出す。腕を振り、少しの間もなく海に投げ捨てた。
親不知は高く大きく飛び、けれどそれを確認出来たのも一瞬で、すぐに海に見えなくなった。
ぼぅっと、親不知が行ってしまった海を眺める。太陽が、ゆっくりゆっくり、海に傾いていく。夕刻は、もうすぐ夜の幕を引くだろう。
カナカナカナ…。
近くの松林だろうか。どこかでヒグラシが泣いていた。夏の終わりの寂しさが、辺り一面に甘酸っぱく満ち溢れている。
帰ろうか。色濃い影法師が長く長く伸びている堤防を、少しだけ泣きたいような気持ちになって、すうっと歩いて行った。

その夜は、本当に穏やかに眠った。湯上りのほかほかした体をベッドに投げ出して、まどろみがやってくるまで体を持て余す。そのうち瞼が重くなり、薄っぺらい夏布団を頬まで引っ張り上げる。ガーゼの布がしんと冷たい。電気を消すと開け放しの窓から月明かりが漏れて、ラベンダーのような匂いがした。もうすぐ、眠りがやってくる。
目を瞑ると、深い深い海の中に居た。私は小さな親不知になって、海藻の茂みに埋れ、頭上を行く透き通ったくらげを眺めていた。どこからか、銀色に光る魚がやってきて、私のからだをつついた。 つつかれた拍子に私は海藻の茂みから離れ、揺蕩いながらどこまでも暗い海の底に落ちて行った。
波に踊り、海流に飲まれ、茶色いからだが洗われ削られて、少しずつ白く丸くなっていく。洗いざらしの髑髏のように。洗われ、削られ。洗われ、削られ。そしてやがて自然と消えてなくなるまで、私はどこまでもたゆたい流されていく。

海は深く、青かった。大きな母クジラが、月に向かって子守唄を歌っている。
わたしは、穏やかな海の底へと、ゆっくりゆっくり、沈んで行った。