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一文一投

思ったことを、だれかにひょいっと投げるきもちで

やさしいあした

バスタブの中でシャワーを浴びていると、自分がどうしようもなく大きな存在であるかのような気がしてきた。目を瞑ってシャワーの水滴に顔を濡らしている私はすくすくと大きくなっていって、やがてバスタブの天井なんか超えてしまって、このちっぽけなアパートも飛び越えて、そして宇宙へのいちばん端っこへと届いていくのだ。

ふふふ。少し笑う。こんなこと考えるなんて。私ってやつは、平和なのか、それともどっかおかしいのか。

シャワーを浴びすぎてのぼせた体を冷やしたくて、バスルームの戸を開けた。開けっ放しにしたままバスタブに腰かけて、しゃこしゃこと歯を磨く。左、右、上、下……。歯の前側全体をおおざっぱに磨いたところで、玄関の扉が開く音がした。

「ただーいまぁ」

間延びした声がしてパタパタとスリッパの音が近づいてくる。ソラさんだ。

「おひゃえりー」

口の中が泡だらけの私は、変なイントネーションでおかえりを言って、片手を上げた。

「また、もう!この子は!」

キッチンに入って来たソラさんは露骨に顔をしかめる。せせこましいこのアパートは、キッチンの奥(冷蔵庫の横あたり)がお風呂になっていて、扉を開け放していると浴室の様子が丸見えなのだ。

「扉は閉めるように言ったでしょ」

ソラさんは私を見下ろしてたしなめる。私は口から泡をペッとやって応戦する。

「ソラさんになら見られてもかまわんの」

「そういう問題じゃない。妙齢の娘が」

「じゃあ一緒に入る?」

「遠慮しときます」

ソラさんたら恥ずかしがりなんだからあ~。そう言う私に背を向けてソラさんは冷蔵庫のドアを開けた。

「ビール買ってきたし、お店の残りのカポナータもあるんだけど。ヤエちゃん歯を磨いちゃったみたいだし、何より聞き分けの悪い子だからあげませんね」

「ええ!ちょっと待って!すまん、すみません、ごめんなさい悪かったです」

ソラさんはここから10分ほどのところでお店をやっている。ソラさんが朝から仕込む料理はめちゃくちゃ美味しい。美味しいけど滅多に食べに行かない。お店でソラさんの顔を見るのは、なんだかくすぐったいのだ。

私は急いで歯をゆすぐとバスルームから飛び出し、ソラさんに怒られないようちゃんと衝立を立てて、体を拭いた。湿ってじっとりと熱かった体が、コットンのタオルで癒されていく。すうっとのぼせてるのが引いて行って、ますますビールが飲みたくなる。

「お待たせしました」

タンクトップとジャージになってリビングに行くと、ああ言った割にソラさんはきちんとグラスを二つ出して、カポナータもしっかり二人分用意して待っていてくれた。私はソラさんのそういうところに、いつもキュンと来る。

フェデラー。負けちゃったのね」

ニュースを見ていたソラさんがポツリと言った。

「ソラさんテニス観ないくせに」

私はまたちょっといじわるな気持ちになってからかう。

「観ないけど」

ソラさんは「ううん」とうなった。

「けっこういい男じゃない、フェデラー。たまんないね」

私はハイハイと聞き流し、ビールのプルトップをひねった。ソラさんと軽く乾杯する。いただきますを言ってスプーンでカポナータをすくった。ひんやりとしたカポナータには甘酸っぱいトマトの匂いが満ち満ちていて、思わず喉が鳴る。えい、と口に放り込む。

「おいしい」

私の一言にソラさんは「当然よ」と笑った。そして「でも良かった」と目を細めた。そんな顔をしているとき、私はソラさんにどうしようもなく「お母さん」を嗅ぎ取る。母性と言うには大きすぎる、まさに「お母さん」の匂い。でもソラさんがお母さんになることは絶対にない。

「いつも思うけど、ソラさんは」

私はカポナータをもぐもぐやりながら言った。

「オトコにしとくの、もったいない」

ソラさんはまたお母さんみたいに笑った。

「わたしも、そう思うわあ」

 

 しばらく黙ってビールとカポナータを進めた。テレビは深夜の音楽番組に変わっている。特集!夏に聴きたい恋の歌!なんだろうね、夏に聴きたい恋の歌って、なんだろね。ソラさんに聞いてみる。

吉田拓郎の夏休み」

ソラさんは平然と答える。

「えー、あれ恋の歌じゃないもん」

「恋の歌ですよ」

「どこが」

「姉さん先生もう居ないって歌詞があるでしょ。あれはね、姉さん先生のこと、ちょっと好きなのよ。淡い初恋みたいに好きなのよ」

「へええ、ソラさんたら妄想族。乙女だね」

「そうよ、わたしオトコだけど、誰よりも乙女なんだから」

ソラさんの恋愛対象は男性だ。特定の相手は、今は居ないみたい。二年位前に死ぬほど恋したの、だからもう今はおなかいっぱい。そんな風に言っていたことがある。

ふとソラさんの視線が気になった。私の肩のあたりをじっと見ている。

「なに」

ソラさんの視線を目で追いかける。

「ううん」

ソラさんはふーっとため息をついた。

「わたし、あんたのこと引き取って正解だったあ」

「いきなりどうしたの」

「わたしね、肩がツンと尖って内側を向いてる女ってね、ほんとにいい女だと思うのよ。身も心もいい女は、そんな肩をしているのよ。ヤエちゃんの肩はまさにそんな感じ」

そうかなあ。私は自分の肩を見つめてみたけど、自分じゃさっぱりわからなかった。

一年前、何もかも一度になくした私に声をかけてくれたのがソラさんだった。ヤエちゃん、わたしと暮らさない?わたし、ゲイだから。だいじょうぶよ、一緒に暮らしたって。

それは今でも、とっても思い切りが必要で、そしてとってもすてきなアイデアだったと思う。

 「寝ましょうか」

ソラさんが隣の部屋に布団を敷き始めた。

「ねえソラさん、一緒に寝てもいい?」

ソラさんの部屋の入口に立って言う。

「ええ!?」

ソラさんは掛け布団を落っことすくらい仰天した。

「いいじゃないの。まんざら他人ってわけでもあるまいし」

「何を言うの。だめだめ、ぜったいだめ」

首をぶんぶん振るソラさんを尻目に私はソラさんの布団にもぐりこんだ。こら、ヤエちゃん、だめ、出なさい、これ。うろたえるソラさんを、布団の隙間からそっと見上げる。ねえソラさん。私は言った。

「私たち、しあわせ?」

ソラさんはきょとんする。

「私たち、しあわせかなあ」

恋人同士じゃなくても。家族じゃなくても。なにがどう、誰と違っても。その続きを言いかけてやめた。ソラさんの手が私のほっぺに伸びたから。

「ヤエちゃん」

ソラさんは私のほっぺをやさしく撫でた。

「わたしは、しあわせよ」

涙が出そうなくらい幸せなときが、人間にはちゃんと用意されている。しかもそれは、感じようと思えばいつだって感じられるくらい側に、こんなにもたくさんたくさん、用意されている。人と違っていても、正しいとされない形であっても。たくさんたくさん、用意されている。

「しょうがないな」

ソラさんは電気を消すと、するりと布団に滑り込んできた。

「今日だけね」

ソラさんの体は、ふんわりと優しくあたたかかった。お店の残り香だろうか、バジルみたいな、ぴりりとしたいい匂いがする。

「おやすみなさい」

ほとんど同時にそう言った。

カーテンを閉め忘れた窓から、レモンみたいなやさしい月が見える。あしたも、きっと、いい一日になるだろう。